虫が苦手だった母親がなぜこの本を買い与えたのか。自分のせいで息子が虫嫌いになってしまうのは可哀想だという思いから、虫を触って遊んでいても我慢して見守ったという話を後年聞かされましたので、その一環だったのかもしれません。
また、虫が出現した際の処理係にしたいという思惑もあったようで、そのためにも苦手意識を持たせたくなかったのだと思います。
クモのやつは、バナナの葉っぱでできた家のなかに、おくさんのアーソーと、ふたりのむすこといっしょに、くらしてた。バナナの葉っぱのうしろには、庭がひとつあった。その庭のなかに、クモのやつと、おくさんと、ふたりのむすことは、ヤマノイモやトウモロコシやトマト、バナナやオレンジをうえた。
(中略)
毎日、アーソーは、米とやさいと肉とコショウを、料理して、たっぷりとしたシチュウにした。
動物や虫が家に住んでいたり服を着ていたりすることは童話ではよくあることです。しかし野菜を栽培し、その野菜と肉でシチュウを作るような行為は虫を捕食するというクモ本来の性質からかけ離れています。他にも漁で獲った魚を人間と取引するようなお話があり「あれ? クモってなんだっけ?」という感覚になってきます。キティちゃんがネコを飼っているという設定を知った時の気持ちに近いかもしれません。
クモが「はげあたまになったわけ」はマメ料理を失敬しようとしたことが発端でした。お鍋から熱々のマメを自分の帽子に移していたところにたくさんの人々がやってきてしまい、慌てて隠そうとしてそのまま帽子を被ってしまったのです。煮え立ったマメのせいでクモの髪の毛は失われてしまいました。
つまみ食いを企てた方が悪いことはわかっていても、頭に熱くドロドロした料理がのってしまう不快感を想像し、あげくハゲてしまったクモには深く同情したものです。
日本版「くものぼうけん」は「福音館の世界むかしばなし」というシリーズの中の一冊として出版されました。ネット検索で大抵のことはわかってしまう昨今ですが、国内サイトでは国立図書館の蔵書データぐらいしか目ぼしい情報を得られませんでした。
かつて「くものぼうけん」を読んだ方がかすかな記憶を頼りにこのページにたどり着いて「あぁ、こんなお話だったな」と思ってもらえるようなことがあれば嬉しいです。