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昔読んだ児童書をもう一度読んで感想文を書いてみる、個人の企画サイトです。

学童疎開と母の話

学童疎開と母の話
イラスト:あみあきひこ

経験談
木かげの家の小人たち」では主人公の少女が戦時中、親元を離れて長野の親戚の家に身を寄せていました。疎開といって子どもたちを地方に送って爆撃などの危険から少しでも遠ざけようとするシステムです。田舎に親類や知り合いがいない場合はお寺などの施設にまとめて預けられました。
第二次世界大戦中は日本だけではなくイギリスやドイツでも行われていました。映画にもなった「ナルニア国物語」も子どもたちの疎開先からお話が始まっています。

自分の母親は集団疎開でお寺に行っていたので、幼い頃からよく当時の話を聞かされました。
集団生活では必然的に序列が生まれます。母の疎開先でも今で言うところのスクールカーストのようなものはあったそうです。親元を離れて寂しい思いをしていたりシラミに悩まされたことよりなにより、ボス的なグループから食事をピンハネされるのが一番辛かったと語っていました。食べ物が乏しく誰もがひもじい思いをしていた時代のことです。

良い悪いは別にして、ボスになれる人というのはいろいろなことを仕切る能力に長けているのでしょう。そうした人々から疎開当時を懐かしんで同窓会を開きます!といったお知らせが届くこともあったようです。
気弱なタイプで表立った反抗などできなかった母は「ああゆう人たちは自分が何をしてたのかなんて忘れちゃうのかねぇ」と苦笑していました。


叔父の場合
母にとって疎開は記憶から消し去ってしまいたい忌まわしい出来事でした。しかし同じ経験者でも叔父(父の弟)の疎開に対する印象は違っていて、同窓会にも参加していたようです。

実家が商店をやっていたこともあり、末っ子として可愛がられていた叔父はよく差し入れをもらっていたそうです。兄弟の中では一番社交的で、送られてきた食べ物もみんなに振舞っていたというのでカーストの上位に位置していたのかもしれません。話を聞いても修学旅行の延長的に楽しんでいたような節がありました。
もっとも食べ物を配ったとはいっても子どものやることです。差し入れの量には限りがあったでしょうし、疎開先の子どもみんなに均等に配られたとも思えません。裏では分け前に預かれなかった母のような子どもから恨みを買っていた可能性は十分に考えられます。

母と叔父の疎開先はもちろん別ですし、それぞれの食料事情や構成メンバーも違うので一概には言えませんが、同じ疎開でも人によってイメージは大きく変わるものだなと思ったものです。


プラモデル
母はお母さんを病気で早くに亡くしており、お父さんも空襲で失ってしまいましたので疎開先から戻ってしばらくは親類の家のお世話になっていました。
相変わらず空腹を抱えてはいたものの時折食卓に上った水でといた小麦粉を焼いただけのものは嫌で嫌で仕方なかったそうです。味うんぬんではなく、配給品の古い小麦粉にはたくさんの虫が湧いていたからでした。泣く泣く虫を取り除きながら食べていると親類からは「居候のくせにぜいたくな」といった嫌味も言われたとか。
あまりにもお腹が空いて道端の雑草まで口にしたこともあったそうなのですが、そこまで追い詰められていても虫は嫌だったようです。

小学生の頃、よくプラモデルを作りました。年齢が上がるにつれ興味の対象はキャラクターものから戦車や戦艦といった兵器へと変わっていきました。
当時の母にとって嫌な思いをさせられた戦争は二十数年前の出来事です。感覚としてそんなに昔ではないことが、大人となった今ではよくわかります。にもかかわらず、特に嫌な顔もしないでミリタリー系のプラモデルを作らせてくれていたのですから、ありがたいことです。

まぁ、我が家に限らず多くの男子がドイツ歩兵セットやら零戦やら戦艦やらを作っていた時代ではありましたけれど。

(2019.12.21更新)

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