作者はその後もシリーズを書き続け日本でも「ラモーナとおとうさん」「ラモーナとおかあさん」「ラモーナ 、八歳になる」「ラモーナとあたらしい家族」「ラモーナ 、明日へ」という5作品が出版されています。
舞台と時系列こそヘンリーくんシリーズを引き継いでいるもののタイトルからわかる通り、主人公はラモーナになっています。さすがにヘンリーくんシリーズと称するには無理があるためか、日本ではこの5冊は「愛すべき女の子ラモーナの物語」という括りになっています。
ゆかいなヘンリーくんシリーズを読み返したおかげで続編の存在を知ることができ、これもなにかの縁だろうと読んでみました。
小学生当時は自分と同じ年頃のヘンリーくんたちに同情的で、暴れん坊のラモーナは正直なところちょっと苦手なキャラクターでした。
しかし大人となった今では、小さいというだけで相手にされないことに腹を立て、その結果癇癪を起こすラモーナを理解でき、その傍若無人な振る舞いすら愛おしく思えます。
「きっと楽しいに違いない」といった素敵なアイデアがいざ実行してみると思ったほどのことではなくがっかりしたり悲しくなってしまったりする。それでもちょっとしたトラブルは思いもかけずラッキーな方に転がったり、家族の愛情などによって解決される。
子ども時代にはよくある感情の起伏。そうしたことの繰り返しであるラモーナの日々を作者は確かな観察眼で温かく見守るように描いています。
ベトナム戦争などを経てアメリカも無邪気なままではいられなくなり、そうした社会情勢に多少なりとも影響されてか「ラモーナの物語」ではお父さんが失業して家計が苦しくなる世知辛い部分やお母さんが働くことによってラモーナが寂しい思いをするような面も描かれています。
必ずしも順調なことばかりではない環境の中で、それでもラモーナは健やかに育っていきます。
近所の小さな子や新しく生まれた妹のおかげでかつての自分がお姉さんやヘンリーくんをうんざりさせた気分を今度は自分が味わったりしながらです。
大人目線の読者としては小学生だったお姉さんのビーザスがニキビを気にするようになり、反抗期を迎え、ハイスクールに進学してピアスを開けるようになる成長の様子にも感慨深いものがありました。
そしてヘンリーくんはまったくと言っていいほど出てきません。中学校進学を機にそれまで毎日のように遊んでいた友達とすっかり疎遠になってしまうのはよくあることとはいえ、少し切なかったです。
「それは、ちょっと先走りじゃないかい」と、おとうさんがいいました。
「そうよ。あんた、十歳になるんじゃない」と、ビーザスがいいました。
「でも、それって、ティーンエイジャーみたいなものでしょ」と、ラモーナはいいました。「ゼロティーンだよ。二けたの数字だもの。」
二けたというと、重みがあって、えらそうに聞こえます。
「来年は、ワンティーン(十一)で、再来年は、ツーティーン(十二)で、それからサーティーン(十三)、フォーティーン(十四)ってなるんだもの。」
このラモーナの発言で「そうか! 語尾にティーンとつくからティーンエイジャーなのか!」と今更ながらに気づきました。
中学英語レベルのことですので教わっていたのかもしれませんが、なんだか新しい発見ができたようで嬉しくなってしまいました。
日本語の十代は10歳から19歳を指す言葉です。ところが自分は十代と聞くと漠然と13歳から19歳を連想してしまいます。
ティーンエイジャーを日本語に訳すと十代になることに加え、小学校という子ども時代が12歳で終わることからそんな認識になってしまったのでしょう、たぶん。
10歳の誕生日のエピソードで終る「ラモーナ 、明日へ」の中で、ラモーナは「校庭ザル」というあだ名をつけたちょっと気になる男の子に言います。
ラモーナは、その後ろすがたに向かって、
「あたし、おとなになる可能性もってるんだからねーっ!」とさけびました。
「おれもだよーっ!」と、校庭ザルは、さけびかえしました。
長い時間をかけて見守ってきた成長物語の終わりにふさわしい言葉のやりとりで、好きなシーンです。