本の印象が薄かったのは、たぶんトムやその親友のハックルベリ=フィンに共感できる部分が少なかったからではないかと思っています。
トムはいたずら好きで、学校をさぼることもあります。身なりのいい見知らぬ少年にイラついてケンカをしかけたりもします。ハックは浮浪児でおまじない用に死んだネコをぶらさげ持っているような少年です。国や時代背景が違うものの、親や先生の言うことを守るタイプの子どもであった自分にはあまり友達になれそうな気がしなかったのでしょう。
トムの弟シッドは兄のいたずらを告げ口したりとあまりいい描き方はされていないのですが、どちらかといえば弟側の人間であるという自覚もあったので、トムの世界に送り込まれたとしても彼らに気に入ってもらえることはないんだろうなという思いが、物語にのめり込むのを妨げていたような気がします。
ただ、自分が死んで、まわりの人が嘆き悲しむ姿をトムが夢想する場面には共感できた記憶が蘇ってきましたので、全ての面で受け入れられなかったわけではなさそうです。
子どもの頃、教育評論家的な人たちがガキ大将がいなくなったと嘆くのをよく耳にしました。乱暴な面があったとしてもそこから学べることもたくさんあった。そうした存在のいない今の子どもたちはかえってかわいそうだ、というようなことを言っていたと思います。
大人になった今ではその論調もわからないでもないのですが、現役の子どもだった当時は自分たちの遊びに年上が絡んできて支配されるなんてまっぴらだし、ケンカなんかしないに越したことはないと思っていたので「ガキ大将待望論」にはもやもやしたものを感じていました。
こんな子どもだったわけですから、ガキ大将的存在であるトムに仲間意識を持てなかったのもうなずけます。もっとも、大人が偉そうに言うことは簡単には信用できないという点では意気投合できたかもしれません。
少年少女講談社文庫は絶版ですが、講談社の「21世紀版・少年少女世界文学館」というシリーズに同じ亀山龍樹が訳したものが入っています。残念なことに挿絵は高橋清ではないので、昭和感あふれる豊富な挿絵も合わせて楽しみたいという方は図書館を当たるか古本屋さんで探すしかないでしょう。
「21世紀版」は細かい部分で訳が変わっています。例えばトムが教会に持ち込んだカブトムシが犬の鼻を挟んで騒動になるという場面、旧訳では
むくいぬは、けたたましくないて、頭をぶるん、ぶるんやったので、かぶとむしは二メートルほどはねとばされて、またあおむけにころがった。
となっていますが、新訳では
プードルは、けたたましくないて、頭をぶるん、ぶるんやったので、くわがた虫は二メートルほどはねとばされて、またあおむにけころがった。
となっています。カブトムシが犬の鼻を挟むということに違和感を覚えた部分ですので、この新訳は納得です。ちなみに原文ではbeetleという甲虫全般を指す単語が使われています。プードルという犬種も一般に認知されるようになったのでムク犬というあまり聞かなくなった言葉から代えたのでしょう。
他にも「さんしきすみれ」が「パンジー」になっているなど時代に合わせて名詞が変化しているようですが、全体から受ける印象は旧訳のままだと思います。
いい服を着てめかし込んだ少年とトムが遭遇する場面では
なんでもない金曜日なのに、くつまではいていた。
という一文の脇に小さな文字で
当時、トムたちは平日はくつをはかず、日曜日、教会へいくときくつをはいた
と書かれています。これは当時の習慣が現代とは違っていたことに気づかせてくれる正統派のいい注釈だと思います。
「大胆不敵」に対して
びくびくしないで度胸があること
と書かれているのも、まあ、難しい言葉を説明するという点ではわかります。しかし、トムが引っ越してきた少女ベッキーに一目惚れする場面、
そこでトムは、自分は気がついていないふりをして、新しい天使の気をひくために、「見せびらかし」の芸当を、いろいろやりはじめた。
という一文の「天使」に対して
美しい女性を、神からのつかいにたとえたことば
と比喩にまで注釈をつけてしまうのはちょっとやりすぎのような気がしました。ここまでの親切設計だと読書のリズムを崩すだけのような気がしてくるのですが、どうなんでしょうか。