しかしそんな幸福な日々に、ナチスの独裁政治が暗い影を落とし始めます。
ニコは民主主義を守ろうとする活動家として手配されるようになりました。自分たちにはわからない理由で暗く不安な空気が漂い始めた生活の様子や、その中で大好きなニコを助けようとする子どもたちの姿がメリッサの視点で描かれます。
訳者による前書きでは『ヤマネコは見ていた』が出版された当時のギリシアがクーデターによる軍事政権下にあったことが伝えられ、次のようなことが書かれています。
いまでも大勢のメリッサが、大勢のニコが、自由をもとめてたたかっています。このヤマネコの物語は、けっしてむかし 話ではないのです。ギリシア政府はこの本の出版を禁止しましたが、それがなぜかは、すぐにおわかりになるでしょう。
政治色や反戦色が濃い作品は苦手なので、この前書きのおかげでちょっと警戒しながら読み進めることになってしまいました。結果としては押し付けがましいメッセージもなく、ホッとしました。
歴史の不幸な波にただ飲まれるしかなかった無力な少女を静かに見つめる作品です。
子どもが子どもらしく過ごせる世界を守るためには独裁政治などなくなってしまえばいいという作品のテーマは明確です。しかし全体としては地味なお話で、悪い政治家が失脚するようなカタルシスもありません。これといって感化されることもなく、辛気臭いお話だなぁという感想で終わってしまったような気がします。
ただ、メリッサのお祖父さんが大切にしていた蔵書が広場で焚書される場面はショッキングで、偶然その場に居合わせた彼女と同様の心の痛みを覚えたとは思います。また、独裁政治に対して恐怖と嫌悪を感じ、レジスタンス活動を続けているニコをカッコイイ正義の味方のように思ったはずです。
独裁への嫌悪感や、世の中の大きな流れに対する反骨心的なものを芽生えさせるきっかけくらいにはなったかもしれません。
「いや、ちがう、きみたちはまだ子どもなのさ。だから、ほんとうなら、子どもの遊びをしていなきゃいけない。だが、いまのような状態では、ぼくたちおとなにはきみたちが必要なんだ。」
というメリッサへの言葉の中には彼の苦悩を見てとることはできるのですが、積極的に支持したい気持ちにはなりませんでした。
ピピッツァという、家はお金持ちだけれども嘘つきで自慢屋、それでいてみんなには構ってもらいたいという女の子が出てきます。ピピッツァの家は独裁政治を支持していたため、彼女の軽はずみな言動からニコがファシストを批判するようなことを語っていたことがバレてしまいます。
嫌なヤツが独裁政治の手先になってしまうという構図はわかりやすくはありますが、そんな設定を背負わされてしまったピピッツァのことがちょっと気の毒になったりもしました。こういう見方も、たぶん大人ならではのものなんだろうなと思います。
メリッサとミルトは時にケンカをすることはあっても、普段はふたりだけにしかわからない秘密の言葉で会話を交わすような姉妹でした。ところがミルトはヒトラーの手によって設立されることになった青年団に加入し、リーダーとなってしまいます。
それは彼女にとってこの上ない名誉ではあったものの、同時にメリッサとの間に距離を作ることであり、やがては大好きなニコの居場所を密告するか否かの状況に彼女自身を追い詰めることになるものでした。
誰がどうあがこうとも戦争という不幸な時代を避けることができなかったのは史実の通りです。作品の舞台であるギリシアにはディストモの大虐殺として知られる悲劇があり、それはメリッサやミルトと仲の良かった村の子どもたちに起きたことかもしれないと思うと胸が痛みます。
それでも人々は生きていかなければなりません。そして、そこに小さいながらも希望があることを感じさせながら物語は静かに終わります。