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昔読んだ児童書をもう一度読んで感想文を書いてみる、個人の企画サイトです。

木かげの家の小人たち

いぬいとみこ 作
吉井 忠 画
福音館書店 一九六七年七月一五日 初版発行
一九七三年一〇月三一日 第一二刷 950円

木かげの家の小人たち
イラスト:浅渕紫歩

プロローグ
日本で英語を教えていたミス・マクラクランは母国であるイギリスに帰る際、古めかしいバスケットを教え子の森山達夫に託します。その中にはバルボーとファーンという小人の夫婦がいました。
ミス・マクラクランは小人たちを守るよう達夫に約束させ「青空の一部がとけこんだようなすばらしいブルーの」コップも渡しました。

むかしから、この「小さい人たち」のたべものは、ミルクだけときまっているのです。よろしいね、タツ。このカップにミルクを入れて、毎日まどに出すことを忘れないで。もし人間がそれを忘れると、この人たちは生きていられません。

こうして小人たちはケヤキの木陰の中に建つ森山家の書庫で暮らすようになりました。大正2年、達夫が10歳になったばかりの時のことです。

バルボーとアッシュの間にはやがてアイリスという女の子、そしてロビンという男の子が生まれます。

小人たちは生まれてから五つになるまでは人間の子どもと同じ早さで、一年に一つずつ年をとりますが、五つになるとそれからさきは、五年に一度しか年をとりません。

ミルク運びは達夫から妹のゆかり、いとこの透子へと受け継がれ、達夫と透子が結婚した後は彼らの三人の子どもがその役目を引き継ぎました。
物語は森山家の末っ子ゆりと小人の姉弟を中心に人間サイドのストーリーと小人サイドのストーリーが並行して進んでいきます。ミルクのやりとりが唯一の接点と言ってもいいような関係なので、ゆりと小人たちが会話を交わしたり一緒に行動したりするような場面はあまりありません。


読み進めるのがつらい
小人には人間に見られてはいけない掟のようなものがあり、森山家の書庫から外に出ることもありませんでした。しかし人間でいえば8歳のロビンは外の世界が気になって仕方ありません。弥平という名前のハトと友達になったロビンは両親に内緒で家から抜け出すようになり、やがて姉のアイリスも行動を共にするようになりました。

切ない気持ちになるファンタジーという漠然とした記憶はあったのですが、ゆりがミルクの当番を引き継いだのが戦時中ということもあり、読み返してみると全体としてはかなり重苦しい雰囲気の作品だと思い知らされました。
ゆりの父親の達夫は外国の本を所持していたというだけの理由で逮捕拘禁され、かつては一生懸命にミルクを運んでいたゆりのひとつ上のお兄さんは戦時教育のおかげで小人たちを憎むようになり、その面倒をみているゆりを非国民と非難するまでになってしまいます。
このあたりの内容をあまり覚えていないのは、反戦メッセージ色の強い部分が子どもの頃の自分には辛気臭いだけであまり面白く思えなかったからかもしれません。

東京郊外にあった森山家にも戦火は迫り、ゆりは家族と離れて長野へ疎開します。寂しい思いをしながらも一緒に連れてきた小人たちを守り抜こうとするゆりでしたが、戦争で物資が不足している中、どうしてもミルクを用意することができなくなってしまいます。
小人たちは人間に頼らないで生きていくという決断をしなければなりませんでした。ハトの弥平や、アイリスとロビンの友達になった日本の森に住む妖精アマネジャキの力を借りて、バルボー一家はゆりの元を離れます。


小人という存在
人間の家に住んでいる小人と聞くとグリム童話の「小人の靴屋」のように、小人が人間の仕事を助け、人間はお礼として小人に何かを与えるといった共生関係が頭に浮かんで来ます。
しかし「木かげの家の小人たち」に出てくる小人は人間からミルクをもらい、庇護されるだけの存在として描かれています。これは今回読み返してみて一番気になったポイントで、子どもの時には気にもとめなかったことでした。

あとがきを読むと作者が子どもの頃に買ってもらった「隊を組んで歩く妖精たち」という本が小人たちの設定のベースとなっていることがわかります。

まどじきいにミルクを毎日ひとたらし置いておくと、妖精たちが喜んでその人に仕合わせを持ってきてくれる

ということもその本に教えてもらったという作者は、戦時中にそれらの物語とどう付き合っていたのかということにも触れています。

その後私はピーター・パンや妖精のパックと知り合いになり、暗い戦争の日々、敵国の妖精たちを愛することに後ろめたさを感じながらも、どうしてもその小さい人々を大切に思わないわけにはゆきませんでした。しかし、そうはいっても、それは後ろめたさを感じながらの、ひそやかな、ひきょうな、逃げごしの愛し方であったことも事実なのです。

そうした複雑な想いに真正面から取り組んだことで「木かげの家の小人たち」が生まれたことを知ると、ミルクというのは人間の想像力の象徴であり、小人というのは人間のなにごとにも妨げられない自由な発想による創作物を意味しているような気がしてきました。
疎開先でゆりが小人たちにミルクを与えることができなくなるというのは、物理的な物資不足ということもさることながら、戦争というプレッシャーの中で作者がそうであったように、ゆりの想像力も押しつぶされてしまったということなのだと考えるとなんとなく腑に落ちるものがあります。

子どもの頃の感性で読めなくなってしまった大人の深読みに過ぎないかもしれませんが。

(2019.9.16更新)

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