今回は自分が昔読んだ本以外の感想文になります。
企画の簡単な説明はこちらをご覧ください。
二分間以内に戻って来るという約束で体育館での作業を抜け出した6年生の
ダレカは悟を見知らぬ森へと転送し、そこでかくれんぼを提案してきました。
——時間はたっぷりある。つかまえるのさ。どのくらいたっぷりあるかというと、この世界でおまえが老人になるかならないかというころ、ようやくもとの世界では二分間がすぎようかって計算なんだから。
自分を捕まえることができたら元の場所、さっきの時間に戻してやると言い残し、ダレカはそのまま消えてしまいます。
しかたなく歩き出した悟は森の中で子どもたちと出会います。それはついさっきまで顔を合わせていた服装もそのままのクラスメイトでした。しかし誰一人として悟のことを知っている様子がありません。
また子どもたちの住む集落には大人が存在せず、自分たちがなぜそこで生活しているのかといった記憶もありませんでした。
竜は人間を倒すことでその力を強めていました。敗れた人間は代償として時間を奪われ、その後の人生で経験するはずだった仕事や結婚などの漠然とした記憶だけを埋め込まれて老人にされてしまいます。
人間に勝ち続ける竜はやがて国に老人しかいなくなると六十本の矢を放つのでした。
六十本の矢は、老人たちの村をこえ、森のとおくへとんでいった。それから一か月。三十組の少年と少女が、竜の館にやってきた。それは、竜によって老人にされた者が産んで育てるはずの子どもたちだった。子どもたちは竜の魔法によってはじめから少年少女として生み出され、とおくの村で養われ、矢でよびだされたのだ。
よく練られた、ぞっとするシステムです。
ネコに話しかけられて竜と剣の異世界へ飛ばされるというプロットは明らかにファンタジーのものですが、この仕組みのおかげでSF小説のような味わいも出ているような気がしました。
小学生の頃、1999年に人類が滅亡するという「ノストラダムスの大予言」がブームになりました。胡散臭さが先行して予言自体にはあまり興味を惹かれなかったものの、確実に訪れるはずの20年以上先の未来は想像できそうでできない位置にあり、めまいを覚えるほど遠い時代に思えたことはよく覚えています。
時間を奪われて一気に老人になってしまうという設定はこれから長い時間をかけて大人になっていく子どもの方がより強く恐怖を感じるかもしれません。
「二分間の冒険」で描かれている異世界は中世ヨーロッパのような設定でありながら、子どもたちの服装は悟が学校で見ていたものと同じであり、そうした点がかつての自分の空想に近い感じがして、小学校の高学年の頃になにをどう感じていたのかといったような感覚を思い起こさせてくれます。
竜退治のためにペアを組むことになったかおりに対する、異性をなんとなく意識してしまう描写も懐かしさに拍車をかけていたかもしれません。
異世界に飛ばされてしまった悟が家族に想いを馳せるようなシーンはあまりなかったと思います。おかげで自分が家族と距離を置き始めたのが悟と同じ年頃だったことも思い出しました。
それほど深刻なことではなく、家族で旅行するよりも友達と過ごす時間の方に魅力を感じ始めるといったようなことです。
子どもから大人へと変化し始める時期の物語。竜が支配する世界では大人に頼ることができないため、子どもたちは自分で決断し行動しなければなりません。
「二分間の冒険」では自分が何者であるかを理解して成長していく、自我の確立も重要なテーマになっています。
作者である岡田淳は小学校の図工の先生を定年まで勤めながら作品を発表し続けました。たくさんの子どもと接した経験は物語に大きく反映されているのかもしれません。
ファンタジーの世界を舞台にしながら、等身大の子どもたちを生き生きと描いている「二分間の冒険」は冒険や謎解き、恋の要素まで盛り込まれた作品で、とても面白く読むことができました。