今回は自分が昔読んだ本以外の感想文になります。
企画の簡単な説明はこちらをご覧ください。
「ぼく」にとってはあまり乗り気になれる提案ではなかったものの下界への「ホームステイ」は決定事項であり拒否権はありませんでした。
かくして「ぼく」は「小林真」という少年の体に宿り、下界での生活がスタートします。
昨今のライトノベルやコミックス、アニメなどでよく使われるシチュエーションに、不慮の事故で命を落とした主人公が生まれ変わってファンタジー世界などで活躍する「異世界転生」というものがあります。おかげで転生という言葉からついそうしたジャンルを連想してしまったのですが「ぼく」に与えられた舞台は異世界ではなく「小林真」を取り巻く現実の家族や学校でした。
ちなみに「カラフル」が発表されたのは今から20年以上前の1998年です。
「真の父親はああ見えて、じつは自分さえよければっていう利己的な人間だ。母親はつい最近までフラメンコ教室の講師と不倫をしていた。そういうことだよ。」
当の真は背が低いことにコンプレックスを持っているさえない見た目の少年でした。仲の良い友達もなく教室ではいつもひとり、勉強の出来も褒められたものではありません。
誰かの人生をトレースすることになるのであれば、その誰かは勉強やスポーツが得意であったり、友人や恋人に恵まれた人物である方がいろいろと楽にやっていけるはずです。信頼できる家族がいればストレスも少ないでしょう。
ところが小林真という少年はそんな理想とは正反対に位置するキャラクターだったのです。真の目を通じて見る世界は「ぼく」にとっても面白みのない、つまらないものでした。
それでも他人の身体に間借りした生活を続けなければならない「ぼく」は少しでも状況をましなものにしようと行動を起こします。その小さな努力の結果、真には友人ができ、片思いのまま失恋した女の子と向き合うこともできました。
「ぼく」の意識は徐々に真と同調し、取るに足らないものに見えていたまわりの世界も少しずつ色合いを変えていきました。
それは、黒だと思っていたものが白だった、なんて単純なことではなく、たった一色だと思っていたものがよく見るといろんな色を秘めていた、という感じに近いかもしれない。
「カラフル」という題名につながる感情の変化。世界の彩度が上がっていく様は映像作品との相性がいいように思えたので調べてみると2000年に実写映画、2010年にアニメ映画、そして2018年にはタイでも映画化されていました。
2010年に公開されたアニメ映画「カラフル」は真の世間に対する視線を反映させて画面の彩度は低く、各キャラクターのデザインも地味目になっています。
キャストの麻生久美子、宮崎あおいの演技がはまっていて印象に残りました。
タイの実写映画は「ホームステイ ボクと僕の100日間」という題名で2019年に日本でも公開されています。
オープニングはサスペンスホラー風味で、本当に森絵都作品が原作なんだろうかと疑ってしまいました。その後もサスペンス的な描写は所々で出てきます。基本的なストーリーは原作を踏襲しているだけに、この演出が必要なものだったのかどうかは最後までピンときませんでした。
「ホームステイ」にちょっとした戸惑いは覚えたものの、2作品とも原作のテーマに真正面からしっかり取り組んでいる感じが伝わってきて好感がもてました。
同時に、映画がとても真面目な作りになっている分、肩の力の抜けたユーモア感という原作が持っている良さを改めて認識することもできました。
真が世の中に背を向けるようになってしまったきっかけは些細なことであり、それは誰にでも起こりうるようなことでした。それでも十代半ばの多感な身にとっては自分がそんな状況に陥ってしまったこと自体が恥ずかしく、許しがたいことに思えてしまい、つまずいたまま起き上がれなくなってしまったりするものです。
目を背けたまま一切を拒絶して忘れてしまいたい世界。でもそんな世界もちょっと視点を変えてみると、もしかすると違って見えることもあるかもしれないよということをユーモア溢れる文体でそっと教えてくれる。「カラフル」はそんなお話でした。
ところで、自分には夜中にふと思い出してのたうちまわりたくなるような若い頃の記憶が掃いて捨てるほどあります。ではセーブポイントまで戻ってやり直してもいいですよ、と言われたらどうするか。
自分はきっとやり直しはしないでしょう。また何十年も生きるのはちょっと面倒くさいという、若者にはこれっぽっちも共感してもらえなさそうな理由からです。
リセットした人生がこれまでよりも良くなる保証もないしなぁと考えてしまうような年寄りにとって「カラフル」はちょっと眩しい作品だったかもしれません。