ひとりはジャック・マーチンといって、年は十八才。せが高く、がっしりしたからだつき、そのうえ頭がよくて、しんせつで、やることはライオンのようにゆうかんですが、気だてはとてもやさしいのです。
もうひとりのピーターキンは、十三才。ちびで、リスのようにすばしこくて、なかなかのいたずらっ子です。
さいごのひとりは、ラルフ・ローバー。十五才。小さいときから海がだいすきで、りっぱな船長になるのが、なによりののぞみでした。
食料を確保し、島のいろいろな場所に自分たちなりの地名をつけ、かつて同じように遭難したであろう人の白骨を発見するといった展開は「十五少年漂流記」によく似ています。少年と無人島というテーマを選択した段階で同じようなお話にはなるだろうし、もしかしたら「十五少年漂流記」のヒットにあやかって書かれたものなのかもしれないなどと勝手な想像もしましたが、それは大きな間違いで「無人島の三少年」の方が31年も早い1857年に出版されていました。
ちなみに「十五少年漂流記」の中でも触れられている「ロビンソン・クルーソー」と「スイスのロビンソン」の出版年はそれぞれ1719年と1812年です。1719年の日本といえば「暴れん坊将軍」でおなじみの徳川吉宗の治世だったわけで、「ロビンソン・クルーソー」すげぇと思わずにいられません。
小学校中学年向きにリライトされた作品ですので、オリジナルと比べるとダイジェスト版のようになってしまっているのかもしれませんが、おかげでテンポよく楽しく読めました。
那須辰造編著による版の初出は1959年ということもあり、訳などは今の時代の人には古臭く感じられると思います。
「ラルフ、どうだい、気ぶんは。」
ジャックが、やさしく声をかけました。
「えっ、気ぶんだって。ジャック、いったい、ぼくがどうかしたのかい。」
「よせやい。」
と、こんどは、ピーターキンがいいました。
しかし、かつてそうした時代を経験してきた者にとっては、こうした古臭い言いまわしも懐かしく、少年時代の気分を蘇らせてくれる効果がありました。
古臭い言いまわしと言えば少年たちが戦ったサメは作中ではフカと表記されています。一瞬「今の若い人たちはフカなんて言われてもわかんないでしょ」という昔のことを得意気に語りたがるおっさんモードが顔を出してきたのですが、すぐに「フカヒレ」という言葉が広く浸透していることに気づきました。
原住民同士が戦で殺しあったり、海賊が大砲で多くの人々を虐殺するといった血なまぐさい場面は多いものの、基本的には少年たちが「正義」を貫いて行動する勧善懲悪の健全な作品です。
ただ彼らの掲げる「正義」は原住民の事情をあまり考慮しない、白人世界のものだったりします。そうした点も、かつては多くの子どもを楽しませたであろう作品が現代まで生き残れずに埋もれることになってしまった原因のひとつなのかもしれません。
小学生向けの本ですので挿絵も豊富です。子どもの頃はこれっぽちも思いませんでしたが大人の目で見るとなんとなく艶っぽい感じがします。
絵を担当している武部本一郎は児童書やSF小説に多くのイラストを提供している大御所で、画像検索をするとなじみのある絵がたくさん出てきます。
以前感想文を書いた「地底恐竜テロドン」の絵を描いてる方でもあります。