思い入れのある作品だけについ語り過ぎて長くならないよう、かなり注意して推敲を重ねたはずなのですが、やはり結構なテキスト量になってしまいました。ので3回に分けています。
大人になってからも何度か読み返しているほど好きな作品で、自分の中では確固たる地位が築かれています。
オールドファンも多く、改訳版が2010年に刊行されたことからも時代を超えて楽しめるお話であることは間違いないのですが、残念なことに一般的にはそれほど知られていないかもしれません。そこそこの長編なので、読書好きな子どもでないとなかなか手に取ってもらえないというハードルの高さはその原因のひとつだと思います。
1974年と2016年に映画化されていながらどちらも日本では公開されていませんので「大草原の小さな家」や「ナルニア国物語」のように他メディアの後押しで知ってもらえるような機会もありませんでした。配給会社に観客動員に寄与するほどの読者はいないと思われているのだとするとちょっと悲しいです。
自らを探検家と称するウォーカー家のきょうだいは湖に浮かぶ小島でキャンプ生活をスタートしますが、島の所有権は自分たちにあると主張する地元のブラケット家の姉妹から襲撃を受けてしまいます。海賊を名乗る彼女らが操る白い帆の船がアマゾン号で、マストには黒地にドクロの旗が掲げられていました。
「ぼくの名前はジョン・ウォーカー。」と、ジョンは言った。「ツバメ号の船長です。これはスーザン・ウォーカー、ツバメ号の航海士。これはティティ、AB船員。これはロジャ、ボーイです。君たちはだれ?」
年上のアマゾン号の海賊がジョンと握手した。
「わたしはナンシイ・ブラケット。海の恐怖アマゾン号の船長兼共同所有者です。これはペギイ・ブラケット、やはりアマゾン号の航海士兼共同所有者。」
出会いこそ敵対的だったものの休戦交渉を経て意気投合した6人は、共にキャンプ生活を送るようにまでなります。
子どもたちが探検家や海賊、あるいは船長や航海士といった役職を名乗っていることからもわかる通り、そこで繰り広げられているのは一種のごっこ遊びと言えます。
しかし食事や身の回りの始末を含めた様々な事柄に自分たちだけで対応する生活は幼い子の怪獣遊びやおままごととは明らかに違っていました。そんな「高度な」ごっこ遊びを実際に経験したことはなく、ものすごく憧れたものです。
児童文学にリアリズムを確立したと言われている作品らしく、荒唐無稽な事件は起きませんし、少年少女が並外れた能力を発揮するようなこともありません。だからこそ、彼らを身近に感じられ、自分もその世界の一員になれたかのように物語を楽しむことができたのだと思います。
「ばんざーい。炊事なしよ。」と、スーザンが言った。
「あははは。」と女の土人が大きな声で笑った。「あなたが炊事にあきたろうと思ったわ。でも、ほんとうによくやったようね。キャンプに病気は出なかった?」
「ぜんぜんよ。」と、スーザンが言った。「それに、わたし、炊事がいやになんかなってないわ。でも、たった一度だけでも、しなくていいっての、すてきだわ。」
反論しながらも、本音が少し顔を出しているのが可愛いです。
子どもの頃、物語の中心人物にはルールを逸脱してしまうような問題児が多いように感じていました。そうゆうキャラクターの方がストーリーを大きく動かせますし、実際面白いお話がたくさんあります。しかし問題児がクローズアップされると、その副作用で良い子の影が薄くなってしまうことになります。ひどい場合は良い子というだけで、大人の言うことばかり聞くつまらない奴扱いされてしまうことすらあり、どちらかといえば良い子のカテゴリーにいると自覚していた身からすると居心地の悪さを覚えることもありました。
「ツバメ号とアマゾン号」にはジョンとスーザンのような「良い子」にもきちんと見せ場が用意されています。「それでよし」と認められているような気持ちになれたことが、この作品を好きになった理由のひとつだと思っています。