——両方の船ばたにかけてある、小さい、丸い——銅貨よりも小さい盾。それから、彫刻して、金色にぬってある、船首かざりのイノシシの頭は、さもしたしげに、ピーターのほうへ笑いかけているように見えました。ほんとうは、とてもこわい顔をしたイノシシなのですが……。
帰りのバス代まで使ってピーターが眼帯をした店主の老人から手に入れたその船はなんと大きさを自在に変えられ、人を乗せて飛ぶことの出来る魔法の船でした。家に着いたピーターは早速その秘密を妹と弟に伝え、不思議な冒険が始まります。
この物語は1939年に発表されたイギリスの作品です。
イギリスの児童文学というとこれまでに感想文を書いた「宝さがしの子どもたち」や「ツバメ号とアマゾン号」のようにきょうだいが主人公の作品が多いように思います。「とぶ船」ではいざという時は最年長者としての責任を果たそうとするピーター、聡明な少女のシーラ、考古学好きなハンフリー、お菓子が大好きな末妹のサンディーという4きょうだいの活躍が描かれます。
これらの作品を読んでいて思うことは日本のきょうだい関係とはちょっと違うな、ということです。上下関係が薄く、年齢の違う友達のような感じとでもいいましょうか。お兄ちゃん、お姉ちゃんではなく名前で呼び合う文化だからなのかもしれません。
ちなみに船は過去に飛べても未来には行けません。
「未来に行くことができないなら、過去に戻った時点で二度と現代に戻ってこれないのではないか」と考えてしまうのは野暮というもの。
そうゆう魔法の決まりだと受け入れて楽しんだ者勝ちです。
物語の中で船は北欧の神々の持ち物「スキードブラニール」であり、ピーターが船を購入した店の眼帯をした主人はオーディーンであったことがわかります。
いまでこそゲームやアニメのおかげでオーディーンやアースガルド、ヴァルハラといった北欧神話にまつわる用語には馴染みがありますが、当時はなんの知識もありませんでした。もっとも北欧神話が「とぶ船」のストーリー展開に深く関連しているわけではありませんので外国の神様の不思議なアイテムという認識だけでお話は十分に楽しめました。
オーディーンがなぜ船を人間の子どもに与えたのか、その謎は明かされません。神様の気まぐれというものだったのかもしれません。
マチルダは父親が領地の報告をするためにロンドンに出かけた留守を見計らってお城を抜け出してきていました。その父親が帰ってくる日が近づき、子どもたちは船に乗ってマチルダを彼女の時代へと送り返します。
「さよなら、さよなら、だいすきなマチルダ!」サンディーが、大きな声で言いました。
「また、お迎えにくるわ!」シーラが、やくそくしました。
マチルダは、星あかりのなかで、みんなのほうを、まっすぐに見て、しずかに言いました。
「いいえ、わたしは、わたしの時代のなかで、わたしらしく、生きていかなくてはいけないの。」
シーラとサンディーは、いそいでからだをかがめると、マチルダにキスしました。
自由に、ひとりの女の子として過ごせた子どもたちとの生活はどれほど楽しかったことでしょうか。それでも制約の多い中世の世界で生きていこうとするマチルダの言葉には領主の娘としての誇りが感じられます。
夏休みに遊びに来て一週間ほど寝食を共にした同い年のいとこが帰ってしまった時の寂しさを思い出させるシーンでもありました。
船を手に入れてからの5年間、子どもたちはたくさんの冒険を重ねました。
そして、また時がたつにつれて、三人の子どもたちは、あの冒険は、ほんとうは、おこらなかったので、ピーターが話してくれた、すばらしいお話なんだと思うようになりました。
大人になっていく過程で魔法が使えなくなってしまったり、それまで見えていたものが見えなくなってしまうという展開は子ども向けの作品ではよくあります。比較的最近接したものではアニメ映画の「若おかみは小学生!」もそうでした。
最後まで「とぶ船」のことを信じていたピーターもやがて自分が魔法を忘れてしまうかもしれないことに気づき、そうなる前に船を元の持ち主に返すことにします。
「とぶ船」を最初に読んだのは小学校高学年でした。本屋さんの児童書の棚がちょっと恥ずかしくなり、少々敷居の高かった文庫本の棚に移ろうかとしていた頃です。だからでしょうか、子ども時代に終わりがくることを告げてくれたこの作品がより身に沁みたのかもしれません。
ピーターは小説家に、シーラは優しいお医者さんに、ハンフリーは考古学者になり、サンディーは結婚してたくさんの子どものお母さんになります。
ピーターおじさんが、あそびにくると、サンディーの子どもたちは、お話をしてくださいとせがみます。すると、おじさんは、いつも、四人のしあわせな子どもが見つけた、「とぶ船」の冒険談をしてやるのでした。
久々に読み返して、子ども時代とはまた違った感情でしんみりしました。